マグロ漁についてPart2
- マグログ
今回もマグロ漁の歴史について触れていきます!
マグロは本当に昔から関わりの深い魚だと調べる度に思います。今回もマグロの歴史・どのように漁をされていたかについて触れていきます
マグロ漁にかかわる相模国(神奈川県)の事例をみると、東京外湾の海村でマグロが漁獲されていたことはありますが、マグロは、外洋性の魚種なので、東京内湾(江戸湾)における海村で、マグロ漁を伝統的におこなってきたところはありません。
東京外湾の金田村(現在の三浦氏三案美下浦町金田)では、マグロの回遊がみられ、ブリの刺網に陥る漁網でマグロを漁獲しています。
マグロを漁獲するたえの漁網を所有していないことから、東京内外湾におけるマグロの漁獲は特別なこととして位置づけることができます。
三浦三崎では「手釣り」や「延縄」の釣漁によるマグロの漁獲がおこなわれてきたましたが、三崎瀬戸を挟んだ、同じ三浦市の城ヶ島ではマグロの釣漁をおこなう伝統がなく、主に「マグロ流し網」によってキハダマグロの漁獲がおこなわれてきました。
相模湾の横須賀市長井ではホンマグロを「手釣り」によって漁獲してきました。
また同地ではカジキを「突ン棒」によって漁獲していた事例もあります。
同じ相模湾側の同市佐島では、「延縄」による釣漁がおこなわれてきた。鎌倉市の腰越におけるマグロ漁は「手釣り」であり、近くの藤沢市江の島でのマグロ漁は「延縄」により漁獲されるなど、海村ごとの伝統的漁法にちがいがみられます。
また、茅ヶ崎市柳島でもマグロ漁はおこなわれてきたが、「手釣り」か「延縄」による釣漁かは不明です。
平塚市須賀では、マグロを「アグリ網」で漁獲したという事例もあるが、「手釣り」によるマグロ漁が一般的であった。中郡大磯町では「一本釣り」によるマグロ漁のほかに、カジキを「つきんぼ(突ン棒)」により漁獲することがさかんでした。
二宮町では明治のおわり頃、「子浦マグロ」といって、伊豆の子浦を宿とし、新島近くまで、和船で「マグロ釣り」に行きました。
小田原市米神では「四艘張網」等の網でマグロを漁獲していました。
真鶴町の真鶴では「堅縄」(一本釣り)によるマグロ漁のほかに、「根こそぎ網」とよばれる定置網にマグロがはいることが多かったです。
このように、定置網にマグロがはいって、おもわぬ豊漁に恵まれたというような例は、近年でも三浦市初声町三戸の事例などがあり、八〇本ほどの漁獲があったと伝えられています。
以上のように相模国(神奈川県)および東京外湾においては例外的で、すべてが相模湾沿岸およびその沖合にてマグロ漁がおこなわれてきたことがわかります。
また、この地域におこけるマグロ漁の漁法にかかわる系譜は、(1)手釣り(堅縄を含む)、(2)延縄の釣り漁、(3)流し網、(4)その他の網漁、(5)カジキ類の突ン棒(ツキンボ)漁とよばれる銛による突き漁などによっておこなわれてきたこがわかります。
【五島有川湾の漁業組織】
竹田旦氏の「五島有川湾の漁業組織」には次のようにあります。
鮪を捕るのはシビ網あるいは大敷きという定置網で、いくつかのアジロがあった。この網代の権利、あるいはその所有者のことを「カトク」といい、旧藩時代はそれが知行として認められていました。
家督といえば、西日本で家の主要なる田畑を指す土地があることはよく知られているが、ここでは世襲の漁場権を意味し、それが田畑と変わらぬ重要な意義のあるものでありました。
明治19年に分村した北魚ノ目を含めて、魚ノ目には十五のカトクがあり、おのおのアジロを一丁ずつもっていました。
そのうち榎津には、オモヤ・コチノ宿・シダラ・下の宿の四つのカトクがあり、各郷のうちでおっとも秀でていました。
このカトク制度は廃藩置県のとき、半カクだけは郷持ちすることにきめ、北魚ノ目では小串、立串の二郷、魚ノ目では浦桑・榎津・丸尾・似首の四郷で経営することとなった。したがって十五家督団は旧版知行時代の半分だけ保有することができ網代からの収入を郷と折半しました。
郷持ちはのちに漁業組合が設立されてそれに移されたが半カクの家督はそのまま残った。これでは組合員の福祉をはかることができないといって、昭和八、九年に一課家督団二万円の割で組合が買いとり家督制は消滅しました。
そのころ榎津では、もとの家督が持っていた半カクの権利を転売したり、分売したりして細分された家督を八軒でもっていたといわれます。
五島で浜を家督制で保有していたところとして他には福江島の岐宿が挙げられます。ここは浜方百姓と十石百姓との二つにはっきりわかれており、浜は磯も含めて、古来五十二名の浜方組全部の家督として継承されていました。
鮪漁は回遊する鮪をミチ網でとらえ、それをシビ網に導き、逆戻りするのはタテマワシ網で廻しとるという仕掛けであった。それにはオカ山見を五人ぐらい必要とし、彼らは魚群(オーガキ、大魚群をイロという)を発見すると、ジャー(采)を振って魚見に合図しました。
魚見は1人だけで会場に竹で作ったウキセイロウに乗っていました。魚見は大敷きの沖番13人の一番大将で、その下に六番まで大将がいました。二番大将をダイクといい、ヒコ網をあげる総指揮役、ヘタノガワヒコに乗り込みました。三番大将をムコウヤクといい、沖ノガワヒコにいて、ダイクの女房役をつとめました。
四番大将は中ヒコノオヤジとかママタキとか呼ばれ、ヘタ・沖の中ヒコにおのおの一名ずつ。五番大将はトモモチ、六番大将はオモテモチで、四隻のヒコ船にそれぞれ一名ずつ乗っていた。ヒコ船はいずれも苫船でありました。
分配にあたっては山見・魚見には三人、ダイクに二人、向こう役には一人半の歩がつきました。
鮪の漁期は、春シビと冬シビの二期あった。遥旧四月に敷き入れて、五月末までの二か月間であるが、一番多くとれました。冬シビは八月中、遅くとも九月には敷き入れ、師走に入らぬうちに半カクだけあげ、他の半カクは鮪の見えなくなるまで入れておくならわしで、正月いっぱいは上げませんでした。
敷き入れにあたっては、家督団が何月何日に入れたらよいかということを、浦桑の常楽院という禅寺に伺いにいきました。これは旧暦六月二十八日、いまは新暦で一月遅れの同じ日に行われ、それをヒミ(日見)といいます。
取った鮪は三丁櫓のブエンタテ船という帆船で本土の早岐へ運びました。2,3百匹も取れたりすると、塩に漬けて、馬関・大阪へも持っていきました。この船も帆船で、コマワシといいました。春シビはすべて煮て、それをしめて油をとったといいます。カスは肥料にした。昔はアカシを買わずにセキ(肺)の油をたきました。あまり鮪がとれすぎて、アシナカ(足半・草履の一種でかかとの部分がなく、足の半分ぐらいの短いもの<筆者註>)を作る暇もなく、鮪が一本とアシナカ一足とを換えたという話もあります。鮪の心臓をウシ(白)といい、えらをキネ(杵)とよびました。
家督に属するものとして、なおブリタテ網とヒオがありました。ブリは霜月・師走から四月までが漁期で、シビ網のじゃまにならぬようにたて廻しました。朝たてて翌晩あげるもので、一網ごとに網代をかえました。ヒオとはマンビキのことで、この網もたて廻しの定置でありました。旧八月のキタカゼのころ、カナヤマとよばれるヒオのうちもっとも太い種類がとれ、次にカナブクロ、その次にコメン、終わりに九月、十月にかけてシイラがとれました。
この引用で興味のもてることの一つは、マグロの敷き入れ(定置網)を入れる日を、常楽院という禅寺にいって伺いをたてるということであります。一般には、生産・生業にかかわる神事や祭事(大漁満足など)はカミ頼みが多いが、「頼寺」という言葉があるように菩提寺など先祖の祖霊に伺いをたてて、たのみとする寺に出かけるという伝承が残ってきたことが分かります。
また、多くとれたマグロを煮て、魚油を製造することなど、今日では思いもよらないことだが当時は下魚としてあるかわれていたマグロであるし、流通機構が整備されていたない時代にあっては、イワシと同じく、油をしぼり、肥料にするぐらいしか価値がなかったのであると言われます。
【マグロ流し網漁】
【マグロ流し網漁】
この漁は弘化4年(1847)に、常陸平磯沿岸で開始されました。それ以前は、もっぱら延縄をもってマグロを漁獲したが、この年ブリ流網をもって小マグロをお漁獲することに成功し、マグロ流網漁業はこの地方でかなり盛んとなったとされます。
だが、この漁業が各地に伝わり、重要なものとなったのは明治20年代以降のことえ、当時は常陸平磯地方のみで行われたにすぎなかったようであります。しかも当時は肩幅5尺位の和船に茣座帆をつけ、漁夫7,8名が乗り込み、両刃もあまり沖合ではなかった。当時の漁業技術を記した資料がないので、参考のため、明治前期の調査により一応の説明をしておきます。
網は6寸目58掛、長さ11尋に製し、これを一反とし、10反を綴合わして1モガイという。総長110尋を55尋に縫縮める。浮子は桐材で沈子はない。漁法は漁船1隻に漁夫12,3人乗組み、12モガイを使用するのが普通でありました。
まず、魚の通路を認め、日の暮れるのを待って潮流を遮り網を下し、潮に従って流し、船をして網と並進せしめる。たいてい、夜半に1回網をあげ、かかった魚を捕獲するのが通例であったが、大漁の時は、数回に及ぶこともありました。両刃は十里内外のおきあいであったが、潮に流され、遠く2,30里沖に及ぶこともありました。
後述する「城ヶ島のマグロ流し網漁」も、この漁法がつたえられてものであろうと考えられますが、伝承資料はありません。
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