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マグロ漁の歴史Part3

2023.04.22
2023.07.06
  • マグログ

3部作でお届けしたマグロ漁の歴史。今回が後編です

マグロの歴史は漁ひとつ取りましても深いです。今回は江戸と三浦三崎でのマグロ漁の歴史について。

【江戸周辺のマグロ漁】

「マグロ漁の歴史」を書くとなれば、いくら紙幅があっても尽きることがありません。それ故、本章では、近世の江戸城下町にかかわりの深い相模国を中心にみていくことにします。

関東地方(東国)におけるマグロ(クロマグロ・幼魚名はメジ)は秋から冬にかけて房総半島から相模湾沿岸に接近する修正をもっており、尾の季節のクロマグロは脂がのって美味です。それ故、マグロは11月から翌年4月ごろまでが旬で、冬の魚とされてきた。嘉永2年(1849)の井伊家所蔵史料「相模灘海魚部にも「マグロ 夏ハ 不佳冬味美也」とみえることは上述しました。

東京湾口ともいえる地理的位置にある三浦半島の金田湾小浜では、明治30年代ごろまでマグロ漁がおこなわれていました。エイジ16年生まれの故老の聞き取りによれば、金田湾には、かなりマグロがきたので、ブリの刺網を使って漁獲しました。ブリの刺身は10間ほどの長さの麻網で、漁網の中では丈夫なもので、網の太さはマッチ棒を5本ほど束ねたくらいであったといいます。小浜では、マグロが来ると村中のものが船で沖に出て、マグロの群を取り囲み網を使って、波打ち際におい込み、むねのあたりまでの水深に追い込んでくると、漁師は海中に飛び込んでマグロをかかえこんだり、カギを使ってひっかけたりして漁獲したものだといいます。

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三浦三崎のマグロ漁

【三浦三崎のマグロ漁】

三崎の郷土史家内海延吉氏が地元の漁師からの聞書きをまとめた「海鳥のなげき」より、その有様を引用してみます。

三崎の漁師の間には、「入梅マグロ」と「手釣マグロ」の言葉がありました。入梅マグロはここへ入梅の頃回遊してくるシビで、手釣マグロとは8月末からキワダ(黄肌)を一本釣でとったからこの名が生まれました。入梅マグロは延縄で釣りました。冬は丸々と肥え脂ものって美味なこのクロマグロもこの頃になるとやせ衰え、頭ばかり大きく尻ッコケとなり、味も落ちて相場も安くなりました。だから入梅マグロとは今日で言う印度マグロ、明治の頃東京で言われた仙台マグロと同じく、三崎ではまずいマグロの意味もありました。

その頃の延縄はヒトオケ(一鉢)250ピロ、鈎25本付、1艘4~7オケ、籠入(明治14年三浦郡捕魚採藻一覧)この縄を順次つないで延ばしていき、縄の始め、つなぎ目、縄の終わりにウケ縄を結び、桐の浮(ウケ)をつけ、笹のボンデンを立てる。ウケ縄で延縄の深浅を調節します。延縄はその日の風向で、舟下に入らぬよう右舷左舷いずれかで投縄したり揚げたりしていました。

手釣マグロは8月のお盆が過ぎ、10月の漁季の切り替えまで、これより外に捕る魚のないため、三崎中の舟はこれに出ました。この時季になれば岬の舟は漁の有無にかかわらず、オラシといって大イワシをブツ切りにして海へオラシた。このエサにマグロが集まると信じていた。またその通り毎年多少の遅速はあるがきっとこのマグロは来たものです。そして多くの舟が捨てる餌で相当期間この海に留まっていました。一種の餌付漁業ともいえるのです。

この手釣マグロは三崎の外、半島西海岸から小田原に至る一帯の漁村からも舟が出ました。この餌は主にコイワシを使い、小さいほどよいとされていました。

縄は150ヒロのヤナを左右両舷の二人で半分ずつ使います。最初は10ヒロ位、順次50,70ヒロまで延ばします。マグロの縄立ちが一定しないからです。この釣の要領は初めの1ヒキでは絶対に合わさず、そのままにしてマグロの食い込みを待つことです。うっかりしている時にひかれ平素の魚の一本釣になれた手が、無意識に合わせて1日1ヒキ千両否何日1ヒキの機械を逸する者もいました。それほど1日の中誰が1度ヒカレルかという程の釣れない漁でした。

ピクリとヒカレtも縄を一重からめにして舷に当てている手に魚の食い込みを待ちます。ピクピクと何回かのヒキの末、グーッと掌にコタエて来るのを舷にオラエルだけオラエてから縄を放します。魚はフキミセズ(勢い良く)縄をサラッテゆきます。その勢いが一瞬ゆるむ時があります。経験のある者はこれを見て、「マグロが引ッ返したぞ」という。すぐに縄をしめる。またマグロが縄をさらう。こうして取ッツ取ラレツしている中に、マグロの勢いは段々弱って来るとアトナ(背後に立って前の者と力を合わせて縄をしめる者)がつく。前の者は肩越しにアトナに送る。最後は銛を打って取るのです。

延縄でも手釣でもマグロはなかなか釣れない魚でした。沖にいて一日中マグロがあがるのを見ない日が多く、それでも港に帰ると、赤い半僧様(漁があったときにつける布のシルシ)がちらちらひるがえって、今日も場のどこかでマグロがあがったのだと思ったものです。もし沖でマグロを釣るのを見るようなら、帰れば浜は大漁でありました。

この手釣マグロの漁季が過ぎると冬のタチバメジが始まるのですが、これは大島沖が主な漁場だったので、小さな船では行けませんでした。

冬はよくシコイワシのハミが出ました。このハミをねらって沖へ出、舟一杯すくって来たり、或いは、このすくったイワシの活ケバエ(生きた餌)でメジを釣りました。(メジはクロマグロの小さなもの)

また、前掲書にはマグロの「漁具」などについて、以下のような記載がみえます。

鈎を良質の麻にしばる。この麻はコウ屋(紺屋・染物屋)で黒く染めました。鈎はシコのカマ(下あご)にかけます。

縄は3ヒロ程の竹の先にかけるが、ツッタギリにしばって手に持っている。ツッタギリとは魚が鈎に食うとある程度その力に抵抗し、鈎が口にささって魚が縄をさらってゆくと、すぐ切れるようにした仕掛です。

このメジお大漁で町の景気はパッと燃え上がった。明治30年代正月の初出に一日一代75円もうけたという老人が現存しています。

34年の伊勢松火事(遊郭伊勢松楼から発火)あ消失戸数600、三崎空前の大火だったが、たびたびの大火にこりてまた何時焼けるかも知れないと、仮普請同様の建築費50円~60円の家は、一日のメジの儲けで建てられたといいます。

冬のマグロ延縄は今考えるとずいぶんお気を操業しました。明治8年戸長役場書上によると、長さ3間半巾6尺5寸8人乗の大繩船で、漁場は東は安房布良沖から西は伊豆下田と御蔵島の間となっている。この舟が7丁ッ張りのテントーだったのです。

マグロ延縄の投縄は時刻によって深浅がありました。朝マヅメ、夕マヅメは浅く、日中になると深くし、夜間は浅くします。またマグロの種類によっても異なる。カジキは最も浅くて浮ケ縄5ヒロ位。この縄は夕マヅメ(テント入れ)朝マヅメ(メアカシ・目明し)を見られるように入れます。

ハエ終ると縄マワリすう。ボンデンの笹が動いていたり引込まれていれば、魚がかかっているのでその浮ケ縄から延縄に手をかけ、魚の勢いの強弱に応じて延縄をしめたり延したりして、いよいよ延縄に手をかけ、魚を近くに引き寄せて銛を打つまでには、相当の時間を要します。小さなマグロならば時間はかからず、魚かぎに引っ掛けてあげます。

マグロも他の魚と同様、鈎に食う時というものがあります。これは潮時と密接な関係がありました。テント入れの縄が当たらないと、コウノ入り(月の入りのこと・光の入り)をみて切り上げようなどと言いました。潮流の変りを見ようとするのです。こうして朝晩2回投縄、天候がよければもう1回操業して帰途についたものです。延縄の付近にカジキやマグロがポンポン跳ねることがあります。良いところに縄をハエたと舟中大喜びして、ボンデンがマ引込むか今引込むかと心待ちにしても、ボンデンの笹は、我関せずとさ揺ぎもせずにいます。その中にその群れはボンデンをあとにぬけてしまいます。ナンダということで、この空ラ縄をあげる力も失せてしまうことがよくありました。これはマグロの位置より鈎が深みに落ちていたので、今ならば魚のいる表面水温と鈎のある位置の水温と異なっているという、魚の適水温の問題で解決できるが当時は鈎の餌よりもっと魚の好むエサが海の表面にいると思っていたのであります。見えるマグロは釣れないという言葉はこうしてできたのです。

マグロの身をおろすと肉の色が変わっていて(身がヤケる)刺身に使えぬことがあります。市場では一尾ごとに買うので皮の上から肉を鑑定するのはよほどの経験を要すします。舟でマグロを釣ると尾バチ(尾ヒレ)を切り取り、頭をたたいて血をはかせ身ヤケを防きばす。頭はヒシャゲル程よいとされていました。したがってこうした処置がしてあるマグロは値がよかった。延縄に次から次にマグロが食っている場合はそうする暇がないので、大漁した時市場に揚げると、二束三文に取られてしまうことがありました。

また、同じ三浦三崎のマグロ延縄について、「三崎町史」(上巻)によれば、以下のような記載がみられます。

明治の30年代は三崎の漁師にとって鮪は大きな魅力でした。一攫千金の夢を僅か肩巾7・8尺の和船にのせて、乗るか反るかの勝負に、生命を賭けて、房総沖の高塚一杯、清澄一杯、或は山無しを乗るなど。冬季波の荒い太平洋上はるかに乗出したヤンノも多かった。

これらの山々は常時見えるわけではありません。時折晴天の日、人々は遠く波に乗る山の影を望んで、はるけくも遠く来つるものかなの感を深くしたことでしょう。

延縄を入れるのはテント入れを見るという言葉もある通り、鮪の鈎の釣れる時刻、日没近くとそれから朝でした。

テント入れを見て天候がよければ舟を流したり、或いは帆走して翌朝暗い中にまた投縄します。宇井で朝日を迎へ海で夕日を送ると、今日一日という印象が強い。ああ今日も無事に終わった、あすの命尾分からないその明日が、今日に続く運命の人々に、親や妻子のいつ故郷の方角に日が落ちて、暗い夜が覆いかぶさってくるのです。始めてヤンノに乗った者はどうしても飯がのどを通らなかったといいます。

船の上から鉢巻を取って朝日夕日を拝む老人を昔はよく見かけました。その若いヤンノ時代の習慣なのだろう。彼等の日常は自然を恐れ自然を頼る祈りの生活でした。彼等は常に遭難におびえていました。

度の港に入って鮪を売り、たまたま遭難の話を聞くことがありました。そんな時銭湯からあがって、生きている中にうまいものでも食べようと、そば屋や汁粉屋に入り、熱い汁をすすりながら、今度は誰の番かなあ、と口へ出してしみじみいったものだといいます。

夏から秋にかけて鮪は岸近く回遊してきたので、沿岸を働く肩巾四尺そこそこの舟も、ネアシビ(盆から10月5日までの漁期)は、そっくり江ノ島下をおもとした相模湾に鮪の手釣りに行った。私見ではあるがこのネアシビの漁期は、根合鮪(ねあいしび)(年中根で魚を取っている漁期の内、この漁期だけ根を空けて鮪を釣る)の意味ではないでしょうか。

八月のお盆が済むと皆船は手釣り鮪に出て幾日鮪があがらなくても、毎日行ってはおらしを下しました。

彼等はこの餌に鮪が集まると信じていたのだ。こうして毎年判で押したようにここに鮪が回遊したのであります。

又毎年入梅の頃にはキハダ鮪が相模湾深く回遊してきた。これを入梅鮪と称して延縄で釣った。

この外に夏南風が入るとよくカジキ鮪を銛で突きました。中にはこの突ン棒専業の船もいました。

房州の方が本職でありましたが、三崎向ケ崎、二町谷にも名のある職舟がいました。これは二町谷の七兵衛丸が二本銛を考案してから、銛の当の確率が向上したとはいえ、眼と力と技と三拍子そろった銛持と、その銛持と以心伝心銛場に船を持って行ける舵取はザラにはいませんでした。

鮪を突く銛持より突かせる舵取りの方がむしろ神技でした。突ン棒専門の船が数多くなかったのはそのためです。全くその時代は経験の集積で体得したカンによってのみ、抜群の漁師の名声を上げることができたのです。

突ン棒でも延縄でも手釣でも、二、三本い所の鮪をとると艫に印(のぼり状の舟印し)をたて全員総裸になって、矢声も高々と港に漕ぎ戻って来ました。一本位では、船をあげてから帆竿(帆の横げた)い赤い布をつけて艫のたつに立てた。これを半僧様といっていました。

鮪はなかなか釣れない魚でした。

なお、文中に「七兵衛丸」とあるのは石渡七五郎氏所有の船名です。

この記事の著者

まぐたつくん

出身:太平洋沖
生年月日:2020年6月生まれ(3歳)
趣味:寿司握り、旅行(世界の海めぐり)
二代目まぐたつくん、よりキャッチーなキャラクターへと変貌をとげ、女性ファンが増えたことにたまに浮かれてしまう、笑
ただし、マグロ解体ショーの仕事になれば、誰よりもすばやく、誰よりも素敵な掛け声で、ショーを展開。
老若男女を魅了し続ける、マグロの中のマグロ、いわばできる男(マグロ)
密かにファンクラブもあるらしい。

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